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こと玉小説術 第四回 潜在意識の虜から自由に- 視覚化の法 ク・ムの言灵

更新日:4月14日




レモンの集中トレーニングでとくに心がけているのは、「ただひたすらに見る」ことに徹することです。「只管打座」。坐る、坐禅に徹することを意味する道元禅師の言葉です。とはいえ、思考は湧いてきます。それでも「私は見る、私は見る…」と強く意識しつづけ、いわば自分が<見る器械>になったつもりとなるのです。レモン全体の輪郭を視野にカバーできるようソフトフォーカスで見るか、それとも部分(たとえば、無数の孔・アナとか、傷とか変色部分ですね)にフォーカスするのか。それはあなたの自由です。どちらも試みてみるとよいでしょう。その場合でも眼球の動きは止めています。色々とやりながら、そのつど生ずる自己の内部感覚の変化に気づいていて、意識の集中・固定という目的に最適な条件となるよう調節してください。




 レモンへの凝視をやりはじめてまもない頃に気づいたことがあります。それは視線を注いでいるレモンの周りにフレーム(枠)を自然と意識するようになり、あたかもそれが結界であるかのように、思考が発生して入りこもうとしても、張られた結界によりはじかれて、侵入できないように守られることが可能なのだという体験です。能動的に思考することと、感覚的な印象を受けとることとは、次元が異なるというか、両者は相容れないと信じることができたことが大きいです。思考がかすかにでも発生して脳裏をかすめようとしたり、意識がぼおーっとしてフェイドアウトしそうになっていると気づいたときは、目を大きく見開いて対象(自分の場合はレモン)に焦点を合せることで、湧き出してくる思考は周辺的な事象となり、影響力を弱めるのが確認できます。もちろん外部から思考が襲ってこない瞬間がずっとつづくわけではありません。

 

 それでも自分の意志や意識を強めることにより、侵襲性や被影響性が極小化されてゆくことが可能なのだ、という感触がトレーニングを持続してゆくなかでつかめ、自信がついてきます。大切なのは、「私は見る」という立場は、思考と闘う姿勢とは違うということで、思考と闘ったり排除する必要はないから、たとえそうしたものが忍び寄る気配を感じても、あるいは「つい考えちゃったとしても」、もう一度、結界の内側のレモンの空間(スペース)意識を「再度フォーカシング」し直すことで、意識の「空性(くうせい)」(ソの言灵)をなんとかキープすることなのです。そうすると、以前と違って「巻き込まれずにいる」体験が増えてゆくことに気づくようになります。街を歩いているときでも、背筋をのばして足取りも軽やかに快く歩け、頭頂を吊られているように顎をひき視線はスーッと前方に向け、まるでそこにあの枠に守られたレモンがあるかのように思われてきます。一種の精神統一状態といえます。

 

(なんでいい小説を書くのにこんな訓練をやらなくちゃならないんだ?)と、頭の中で疑問のつぶやきが聞こえるかもしれません。

 答えは、【命の力をより創造的に使うため】です。では、創造的な使い方とは何でしょうか。

 

 それは【視覚化】なのです。これは小説の世界を創り、想像の世界を描くのに必須であるだけではありません。じつは、だれの人生にとっても、とても大事なことなのです。なぜならば、前回も書いたとおり、わたしたち人間は、差し当たって大抵、【潜在意識的に生きてしまっているから】です。

 

 

 潜在意識から突き上げられ、噴出してくる無意識的なエネルギーに動かされているともいえます。その潜在意識の想念の貯蔵庫には、あらゆる「夢」や「願望」の想念があり、その下の層には、前回お話したサイコ-ノエティカル・イメージという名にも表れているように、感情(欲望を含む)にまみれた思考の産物とともに、不満や他者との比較、妬み、劣等感、虚栄心、優越感、恐れ、憎しみ、嫌悪感、罪悪感など、ありとあらゆるドロドロとした未浄化な感情想念が蛇のトグロのように渦巻いているのです、意識的になんらかの方法により浄化しないかぎりは-

 

 人間の苦悩が何に起因するのか。それを究明した真理の言葉のひとつが、般若心経という地球人類への遺産です。五感をつうじて受け取る印象への反応に引きずられ、さらにそこから生ずる思考というより妄想妄念に振り回され、「幻影」を増殖させ、信じこみの投影された環境の住人に安住して、「これこそがワタシだ」と自己証明することに執着してしまう。その結果、非創造的で破壊的なエレメンタルの虜となる……。このメカニズムを俯瞰せよ、というメッセージです。

 


 わたしたち人間は、24時間のあいだに受け取れるマインドバイタリティーを100単位として、そのうち40単位は大天使たちがわたしたちの肉体を創造し維持してくれるのに使い、さらに40単位がわたしたちが考えたり、動いたり、場所を移動するなど生活の手段として使われ、残る20単位が好きなように使えるということです。ところが、悪魔を心の中に飼ってしまうと、不満や妬みや恨みや自己否定、自己卑下など、人-悪魔エレメンタルと呼ばれるものを溜めてしまうこととなり、それらにエーテルバイタリティーを吸い取られ浪費することになってしまいます。その結果、創造的なことに使えるエネルギー(マインド超素材)は枯渇してもはや残っていないことになります。ここから、低次の思考に引廻されることがいかに危険かがわかります。

 

  ダスカロスが「集中」のトレーニングが不可欠と述べるわけは、それが「視覚化」「瞑想」の準備段階だからです。小説を書こうが書くまいが、だれの人生にとってもこれらが重要だと書いた理由は理解していただけたでしょうか。

 

 ダスカロスは、「意識を固定し、そのものについて何も考えずに、そのものを凝視しなさい。…そのものが何であるかも考えません。ただ、そのものの形態と色を見て下さい。…5分で結構です。この5分を継続的に訓練していくことにより、この5分が「瞑想」の開始を可能にしてくれます。」と、述べています。

 つぎに彼は「瞑想」とは何でしょうか、と問い、「それは意識をある考えや概念に固定し、それを学ぶことです」と答えています。

そして、その一例として、トウモロコシの種を手に取って、それに集中することが「トウモロコシの種への『瞑想』となります」と、述べてそのやり方を解説してくれています。

 

【トウモロコシの種に2~3分目を向け、そのあいだに意識をそれに固定する。つぎに目を閉じて、「瞑想」に入る。肥沃な畑が見えている。種を蒔き…大地に落ちているところが見える。やがて雨が降ってくるのが見える。このように、「瞑想」と「視覚化」が一緒になって進んでゆきます。雨が大地にしみこみ、種を包んでいるのが見える。雨が止んだ。太陽の陽射しがふたたび注がれ、土が暖められてゆく。望みさえすれば、もっと雨を降らすこともできるし、湿度を高めることもできる。つまり、あなたには選択肢があると、ダスカロスはいいます。つぎに、種から根・茎が伸び、大地を押し分け目が出てくる。雨が降り、土が水分を含み、…大地をかき分け、地面から天に向かって成長してゆく。瞑想にはスキルが求められ、できるだけ自然に近い経過で進められる必要があります、というのは、なかなかの要求ですが。トウモロコシの穂が現れ、成長し、最後に実ったトウモロコシの畑が目に映ってきます。そして、さらにトウモロコシに意識を向けつづけ、長い茎が風に揺れているのが見え、季節のうつろいとともに、色が変わってゆくのを見て、黄色味をおびてきた頃、収穫のときを迎えます。】


 それもどんな方法で収穫するのかを決めるのは自由です。ダスカロスによると、これは人間でも動植物でも、共通にたどる必然的な道である「実現性の循環」という法則の理解にもとづいています。もちろん、小説を書く場合、すべてがこれにあてはまる描写になるとはかぎりません。何を素材として選ぶかによりますが、しかし多かれ少なかれ、時間の経過とともに自然の消長や盛衰をたどる部分は他の対象や場面〈人の運命とか、栄枯盛衰など〉を描くときにも免れませんから、この例は参考になるとおもいます。

 

 こうして見てくると、対象をしっかりと凝視することに刷り込みエーテルのエーテルバイタリティーを使うことは、集中、瞑想、視覚化をとおして、最終的には、対象に周波数を合せること、チューニングし、アチューンメントすることにより、その対象が本質を現わしてくるにまかせることだとわかります。これは、こと玉的に解明すると、水と火がくみ、からみ、もやい、むつむことにより、万象万物が生成消滅してくるという山口志道の『水穂伝』で説かれる真理と合致してきますが、アチューンメントということをもっともよく表している法則として、「與(く)む」という法則をもつクの言灵、それから「睦む」という法則をもつムの言灵が注目されます。

 

 自然を人間の都合により、コントロールし、支配し、利用する西洋の自然観とは対照的に、自然を虚心坦懐に見つめるときに向こうのほうから語りだし教えられるということを思い出しました。




            12th Apr, 2024  言海 調

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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